nobody hurts

March 2, 2011

20110303 - silence (on thursday)

聴取の人称。



 少年は自分が逆編集に耽溺し始めた時のことを覚えていた。
 新宿で彼女、もしくは「彼女」の姿を見かけた冬の晩のよりさらに六年前の晩冬、ある雑誌の取材記事をまとめていたときに、自分が取材した人物の声と人称が際限なく分裂していくように感じたのだった。



 それは凡庸な体験だった。カセットテープに録音された声があり、その声が語ろうとしている意味内容を発話している人称があり、それを聞き取ってコンピューターのエディターで書き起こしたテキストがあり、そこで編集された取材対象の人物の声をまとめあげる一人称を設定したのは少年自身で、気がついた時には少年はさらに聴取の人称というものに思いを巡らせ始めていた。
 人称と声は必ずしも一致しない。
 改行するほどのことでもない。
 だが声はひとつしかない。
 さらに少年の人生の時間を乗っ取る形でその取材の日の現場で何度も同じ話を繰り返しているその人物に関する少年の記憶のなかで、その人物は声と人称とは自在に切り離すことができると話していた。



 それ自体は当たり前のことだ。
 舞台上の役者がその役者自身として行動し、その役者自身の人称で喋るということがないように。
 もし舞台上の役者が役割に命じられた人称ではなく、その役者本人の人称に於いて行動していると普段から認識しているような者がいれば、その者は舞台の上にさらに設えられた舞台に立っていることになり、誰にもその者の声と人称とを一致させることは機能的に不可能になる。それは芝居の芝居ということになり、その者の言質と発話を一致させる必要はなくなる。それは困る。と少年は思う。
 六年前の冬、その原稿を仕上げながら、声と人称が切り離せる、ということに少年は遅ればせながら気がついたのだった。
 それならば、その声や人称により語られている内容こそが、真に声と人称とを持つことになる。ある内容や意味が場面を設定し、そこを行き来する人物の過去や行く先や声や、彼らや彼女たちの人称を工面する。語る、ということがそのようなものであるのならば、そもそも少年が取材をしていた人物が、取材時にその人物自身の人称で語っていなければならない理由はなくなる。
 つまり、演技を解体するという演技を続ける役者の独白を少年は延々と聞いていたのではないか。そのようなことを考えている少年の内なる声の人称は少年のものか。絶えず旋回し、侵襲し、浸透し、互いを好き勝手に圧縮しては、好き勝手に展開し合うだけのふしだらな対話の演技が少年の内側で続いており、それを真に受けているのは他ならぬ少年ひとりだったりする。



 そのようなことを自分でまとめた原稿を前にした少年は考えていた。人称に声を寝取られたような気がした。その思考そのものが少年に可能などのような人称に割り当てられたものかも少年には分からなかった。
 ともかくそこに声が流れていることが重要で、人称が入れ替わり続けるというのが当たり前のことなら、何が意味と少年とを結びつけ、何によって少年自身を規定するのか。
 声と人称で考えるからややこしくなる。
 なれるものなら意味そのものになってしまいたい。
 少年のそのような浅はかな願いと逆編集という技法とは親和性が高かった。

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