20110304 - silence (on friday)
「続きを聞かせて」。
★
発話という行為を逆編集して、そこに自分がいない振りをすればそこに意味だけが残るのではないか。少年が逆編集の論理に見いだした希望はそのようなものだった。
発話だけではない。自分の行動のひとつひとつに逆編集を施し、自分がそこにいないまま自分の行為だけが続いているという振りをすることもできる。
逆編集の腕を磨き、それをリアルタイムで処理してみせる。
それが少年のたてた目標だった。
言い換えれば、それ以来彼は人生の実際の時間において、そこに自分が存在せず、自分が何か発言したり行動したりしたその結果だけが残っている振りをし続けた。さらに腕を磨けばまだ訪れていない時間を既に生き終わった振りが出来るようになるかも知れない。少年は胸を躍らせた。
それは当時の逆編集者のなかでも極度に異端的なあり方だった。自分の経験から自分を抜き去って、その経験の純粋性に迫るのが逆編集の極意だというのに、自分の行動から自分だけを消し去って、なおもその因果を生きようとするとは何事か、と憤慨する人もあった。より正確に言えば、自分の経験から自分を抜き去った振りをして、その経験の純粋性に迫ったふりをするのが極意だという振りをしているのに、お前と来たら、自分の行動から自分だけを消し去った振りをして、なおもその因果を生きようとしている、ということになる。
★
自分が経験した振りをしたものから自分を消し去って、自分が経験しなかった物事の純粋性に迫るというのが、逆編集が次に辿り着くべき目標なのではないかと、逆編集を学び始めて間もない頃に少年は提言した。
逆編集を学ぶ、と言っても自分の目の前で進行している光景や、もしくは記憶から自分がいなくなった振りをして、過ぎていく時間を虚心に見続けるだけで張り合いがない。
お前の感傷はよく理解できる。
提言された側の男はそう答え、続けた。
なあ、現実の経験から自分を抜き去っても、現実は存在する。いや、俺だって一応はまともだ。現実から自分を消し去ることは出来ないのは分かってる。ただ、そこから自分を消し去った振りをするということは、つまり感覚から余分なものを一個取り除こうってだけのことで、その跡形には耐えられない膨大が渦巻いており、そこから生まれる懐かしさで息もつけなければ俺はそれでいいんだ。だけどお前は、自分の行動から自分を消し去った振りをしてみたり、それはまだ理解可能だとしても、自分が経験していないものから自分を消し去ってみたいだの言ったりする。自分がいないところから、どうやってそれ以上いなくなる気だ。
★
まず、これは感傷ではない。
少年は答えた。そして続けた。
事実として、物事は高度に洗練されたやり方で分類され、互いに関連づけされ、無数の評価軸がひしめく批評空間の幾つもの違った次元において検分され、複製され、売買されている。そこで流通している作品にまつわる文化的な参照や、伝統的な価値や、批評によって言及される物語を取り払って、その作品自体の息づかいに触れる、振りをする、というのが逆編集のもう一つの目的だろ。作品が記録しているものが経験だとしたら、その経験の純化を逆編集は求めている。とんだ戯れ言だと思うけど、理屈としては面白い。自由人称サブプロセスもそれなりに実りのある試みだと思う。でも、既にそこにある批評軸に合致しない批評軸を生み出すことにより、いわば受動的に非批評的な態度をとり続けるというのは、はっきり言ってあざといし、無理があると思う。それこそが経験の戦略化の極みではないかと僕は危惧している。
少年はここで咳き込んだ。
もちろん逆編集なんてものが可能だって前提で話してるんだけど、いまこう話しながらも、僕は自分がここにいない振りをして、それと同時に、ここにいない振りをしている自分がここにいない振りをするコツをマスターしている、という振りをしている、という内容の発言から自分の声と人称だけを消し去ってその意味だけが伝わっている、という振りをしているところだ。あるいは、僕がそう言っているのを君が聴いているという振りを僕がしているだけかもしれない。いま君が僕がここにいる振りをしている振りを僕がしているのかもしれない。唯我論のように聞こえなければいいけど。
★
あなたって昔からあれだったのね。
少年のそこまでの思い出話を聞いた彼女が言う。
そうでもない。
と少年が謙遜する。
続きを聞かせて。
彼女がいう。