20110321 - silence (on monday)
そこにあるひとつの角度からの冒険。
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彼女はこのような場面を思い浮かべる。どこか地下深くに設けられた無人の研究プラントの一室、オレンジの非常灯の光りが幾つかの培養カプセルを照らしている。培養カプセルは無節操に何十基もひしめいているわけではなく、内部情報を実地でモニターするための簡単な端末が取り付けられた透明な硝子で囲まれた円柱が、研究室内に五組ほど設置されているだけだった。判別に時間がかかったのは、光量の足りない非常灯の明かりのせいだったが、普段その場所を照らしている白の清潔な光りを彼女が知っていたわけではなかった。彼女は初めて目を覚ましたばかりだった。おそらく自分は培養カプセルのなかにいたのだと思うと思う、と彼女は振り返って、そこで殻だけが割れた卵のように何事もなく砕けたカプセルの円柱があるのを確認する。彼女は自分が生まれたばかりであることを確認する。それが確認できることを確認する。それが本当に確認できているかのように行動できていることを確認する。培養カプセルのなかで意識を取り戻し、もしくは意識を獲得し、彼女の裸体に取り付けられていた、様々な電極や、電力の抜けた拘束具を振り払い、もともとカプセルを満たしていたであろう培養液を踵の裏に感じながら、カプセルに入ったヒビを自力で広げて外に出たのだった。
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空気が肺に痛かった。オレンジの非常灯の光りはその両目で初めて世界を見始めた彼女にとってちょうど良い明るさだった。それが彼女が生まれてから二分間のあいだに持った記憶の詳細だが、ひどく漠然としたものでもある。彼女は意識を持つのは初めてで、記憶を扱うということも経験したことがなかった。かといって新生児の危うさがあるわけではなく、初めて目覚めるにしてはやけに堂々としていて、行動のひとつひとつに迷いがなかった。彼女は自分の周囲にあるものからの比較で、大体の自分の身長を割り出した。一般的な数値に換算すれば160センチ弱と言ったところだろう。ずっと夢を見ていたことなら覚えていた。それが意識活動の代替になったのかも知れない、という考えが脳裏をちらつくが、その考えにしても、そして、その考えに対する批判にしても、それらがどこから湧いて出てきたものなのか彼女には判然としなかった。考えを持っていると知っていることは知れた。そして彼女にはそれ以外に頼るものはなかった。
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彼女はそのような場面を思い浮かべている。彼女はそのような場面を思い浮かべながら、その場面に立っている初めて目を覚ましたばかりの自分が、視覚をずいぶんと上手く使いこなしていることに気付いた。視覚を通した認知の基本的に思えるような機能、遠近感や、地と図の解釈などの機能は生来的に十全になものとして備わっているわけではなく、発育過程で脳の部位を発達させていくことにより養われる。彼女は自分の見ているものが遠近のない、一枚の平坦な絵柄ではなく、奥行きを持った半壊の研究所の光景と何故か知っていると何故か知っていた。培養器のなかでずっと見ていた夢、もしくは外部から加えられた電気的な刺激が彼女の脳を、いま彼女の脳がそうであるように形作ってきたのだろうか。それがどれだけの繊細さを要求する事柄かは彼女には判断が下しがたかったが、その機構の輪郭を思い浮かべるだけの知能が自分に備わっていることを彼女は意識した。
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目の前を流れていくのは名前のないものたち。無機的で、感想を生まず、何かの機能を持っていることは分かるが、それが所期のものとして安定して機能している限り、それらの事物は彼女の関心を惹かなかった。机や、椅子や、コンソールや、誰かが脱ぎ忘れた白い上着や、ペンや、無傷で中身には何も入っていない四基の培養カプセル、という名前で呼ばれるはずのものは、一切彼女の関心を引かず、個々を背景から区分することは出来ても、それらは何の重要さも主張していなかった。唯一彼女の注意をひいたのは、研究室を本来の広さの半分に区切っている隔壁と、恐らくは爆発によりその隔壁に空いた直径二メートル足らずの穴だった。彼女のなかの何かが彼女に生きろと伝えていて、彼女はお前もなと返していた。そこにあるひとつの角度からの冒険が始まっていた。