nobody hurts

March 28, 2011

20110329 - silence (all day long)

一致の階段はいつも一段飛ばしで、彼女の体がそれを覚えている。



 彼女はふと手を伸ばし、少年の顎に指先で触れる。
 何の仄めかしもない、単に指先で少年の顎に触れるための動作。マグカップ二つ分の距離は腕がすぐに飛び越えた。背中はほとんどそれを余分に支えず、ただ肩だけがわずかに前に出た。彼女の指が圧すだけの力で少年はわずかに首を持ち上げた。彼女の指にかかった力は関係ない。彼女の指が動いただけの高さを少年の顎が持ち上がった。
 いまを懐かしがっているこの男に何ができるか。
 いまを懐かしがっているこの男にわたしが何をできるか。
 彼女は彼女の言い分のなかで、少年は少年の沈黙のなかで、それぞれが過ごす初春の光景のなかで、互いが光景の要求によりそこに配置されているという疑念を振り払えないまま、見えないやりとりを、見えるかたちでおこなった。
 すなわち、懐かしいという感情を知らない彼女が、懐かしいという感情しか持たない少年に出会い、何が懐かしいのかを決めてみようと試みて、彼女は「彼女」を経由した強迫観念を通じて、少年は生来の感傷癖に由来した逆編集という妄想に取り憑かれて、「彼女」と少年は、そして彼女と少年の妄想は盛大に正面衝突をした後、実際に流れている時間のなかで決して実際には流れることのない時間を二人は過ごしていた時に、彼女は、「彼女」として、「彼女」は彼女として、少年に言葉を投げかけた。



 それはたぶん光りそのものではなくても光りの意味ではあったのだし、そうあるのだ、と彼女は思う。
 この男があたしを透かして「彼女」に仮託しようとしていたし、いるのは、きっとそのようなものだと彼女は思う。
 それは特に彼女が自信過剰というわけではなく、彼女なりの鑑識眼で少年を識別した結果だった。
 自分の人生が、人生そのものではなくとも人生の意味ではあるということを彼女はよしとせず、彼女は自分の本能に近い部分での判断のその意味を探そうとしていたが、それは問題を二重化するだけであるとすぐに気がついた。それに、そんな話しになったら意味と意味を持たないものを識別することなんてとてもじゃないができそうにない。
 一致の階段はいつも一段飛ばしで、彼女の体がそれを覚えている。



 一段飛ばしというわけでもなく少年の顎にかけた指を、彼女は下ろす。
 いつの間にか音楽が鳴り止んでいることに少年は気付く。次のプレイリストを確認しようと少年はかたわらに置いた携帯型音楽プレイヤーを右手で操作している。左手は彼女に触れるわけでもなく、そもそも少年が座っている場所からはそのままの姿勢では届くはずもなく、少年はクッションの上であぐらをかいている自分の膝近くにかぶせた手の平を、軽く開いたり閉じたりしていた。それはその行動自体の鼓動であるように見えた。涼気の層が床に被さっていたがそこに浸された少年の手は軽く汗ばんでいた。
 彼女はいつものようにひとつの鼓動のようでしかなかった。そのことを確認しながら、たとえばマイナスの鼓動というものがあるとしたらそれは自分の鼓動のことだろうなと少年は思った。

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