nobody hurts

April 6, 2011

20110406 - silence (tangible)

風速を持った血流。



 彼女は掌に残る少年の頬の温もりを思い出していた。思い出していた、というからには失われていなければならないはずのそれが、まだそこに残っていた。あるいは少年の頬の温もりがそこに残っていたときのことを彼女は思い出しているのかも知れず、そうとなるとそのことを思い出している今はいつで、わたしはだれとどこにいて何をしているんだろう、などと考えて温まる自分の心を彼女は憎んだ。あるいは心のほうが憎まれることを許していた。心というのはそういうものだろうと彼女は考えついたが、今回もやはりそのことを少年には教えなかった。
 教えたいことはもっと他にあった。
 少年は自分の脇に置いたまだ湿ったクッションを気にしている振りを時折はさみながら、右膝を抱いて体をゆっくりと前後にゆすっていた。ずっとそうしてきたように、ずっと自分はそうしてきたとたったいま少年が決めつけたように、そしてずっとそうし続けることを検討し始めたかのように、その時間を何気なく過ごそうと努力しようとするかしないかの隙間で少年の感情が踊っていた。少年は感情と思考との区別をつけることを能動的に止めようとさえした。あるいは、自分の感情と思考だと思い、思考を感情だと思い込もうとして、結局はその意味を考えることに終始していた。少年にとっては心とはそのようなものだったが、少年が彼女にそれを伝えることはなかった。この部分においては少年と彼女の関係がねじれていると述べる必要は特になかった。



 彼女は右腕を伸ばし、少年の左腕に触れた。マグカップは彼女の右隣、少年の左隣に並べられていたし、少年の左手は右のくるぶしに添えられた自分の右手を押さえていたので、彼女は右腕を少し前に出すだけでよかった。そして、伸ばすというよりは、差し伸べる感じ。差し伸べた先に、偶然が待っている感じ。あるいは偶然のその幻が。そう考えた彼女は弱気になっている自分を意識するが、偶然か、それとも偶然のその幻なのは自分も同じことなのだと考えて落ち着きを取り戻した。
 彼女の右手が少年の左手をはがして、それを彼女の頬まで運んだ。少年の掌は思ったよりもごつごつしていた。風速をもった血流が彼女の肌を内側から撫でていた。少年の体温はまだその渦との調停を行う役目を与えられていなかった。少年の掌が彼女の頬に触れた瞬間、部屋の空気が変質したのだと彼女は思ったが、折良く吹き込んだ風がその妄想を中和した。彼女は終わることのない儀式の自分が中断できたはずもないその続きを始めることにした。
 彼女の掌が少年の左腕を支えていたが、彼女が目を合わせながらその掌を軽く持ち上げる仕草をすると、少年は能動的に彼女の頬に触れることを始めた。それでも彼女の手は少年の手に添えられたままだった。

category

archive