nobody hurts

April 10, 2011

20110410 - silence (factual)

舌。



 そこには少年は存在せず、少年が彼女を抱きしめているという事実だけがあった。もしくは彼女がそこにいるという事実があった。少年は自分がそこにいるという事実をかたくなに認めなかった。もしくは少年は自分がそこにいるという事実を否定しながらも、四月の彼女の住居の居間で自分が彼女を抱擁しているという事実は認め、いわばその事実だけを誰かが愛した。
 彼女は痩せていたが、抱きしめてみるまでは少年がその肩の広さを測ることはできなかった。肩の広がり、項や背中へと流れていく数種類の曲線、あるいは結い上げた髪の毛から垂れている彼女の肩の破片、肌色の広がりと、肌色と衣服の境界、彼女自身の体のニュアンスを拾いあげる彼女の体の動き、自分の胴体と少年の左腕に挟まれた右腕を自由しようと彼女が軽く体をよじらせた。自由になった右腕を彼女は少年の背中に回した。
 あるいはそこには彼女も存在せず、「彼女」が誰かに抱擁され、「彼女」が誰かを抱擁しているという事実だけがそこにあるのかもしれなかった。



 先に唇を重ねようとしたのはどちらだったか。少年の影のかたちをしたものが先に動いていた。少年にとっては感触の映画が続いていた。皮膚を流れていく通常では考えられないほど沢山の情報と、それによる高揚を少年は眺めた。それは静寂や沈黙と等価でなければならない、と少年は思う。しかし。
 どちらの舌がどちらの舌に先に触れたのかも分からなかった。沈黙で喋るために舌を絡ませた。没頭された行為だけが存在した。だからそれは眠りのような口づけだった。あるいはそれは眠りのようだった。あるいはそれは口づけのようであり、少年と彼女の形のようでもあった。
 少年の形をした少年が、彼女の形をした彼女の沈黙を確かめていた。その事実だけが、少年と彼女をそこに存在させていた。



 境界線しかそこに存在しなくなった。世界は濡れた膜になった。温度が動き、時間が意識を持った。どこかに心拍数が二斤存在した。舌が二人の人間に対して二枚あった。それらは完全に絡むということもなければ、完全に逸れるということもなく、時折いたずらに規則性が乱されては、展開が即興で発見された。その結果だけが存在し続け、それ以外のものは消えた。
 いやまだだ。と彼女は思う。
 まだ誰もいなくなったわけではない。「彼女」が残っている。そしてこの抱擁と口づけが「彼女」に対する装飾としてのみ作用し始めている。きっとこれが少年が見たいと思っていたものだろう。でもこれで終わりじゃない。まだ続きがある。彼女は行為に没頭したまま、「彼女」が逆編集の手法で現在を懐かしむように仕向けた。つまり、彼女はそこからいなくなった振りをしている人間の振りを始めた。そこからいなくなった振りをした「彼女」は自身の経験を追いかけようとして彼女の動きを見ていた。自分を覆っていた両面鏡張りの装甲が透明になったのを彼女は感じた。あるいは、最も恐ろしいのは、透明になっても結局鏡は鏡であるかもしれないということだった。

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