nobody hurts

October 18, 2011

20111018 - a song - 1

 あたしと樫は秋のプラットホームに降り立つ。
 あたしは睫毛を見ながら生活している。
 春夏秋冬という名称にさほど意味はなく、いつも漠然とした季節を生きている。名前があるから印象が生まれ、印象から実感を膨らませ、実感からあたしはあたしを取り出す。それでもあたしにとってあたしはあたしという印象であることを知っている。
 電車のなかのニュートラルな空気があたしは好きだ。季節感のない昼夜の移動、光景が過ぎ去り、目的地が自然に発生するようで、常に帰り道を検索して情報が絡まる。用事を思い出して、家を出た理由を忘れる。それから数年経つ。
 軽々しくこんな事を言っているが、人間はもう少し複雑に出来ている物だとあたしだって知っている。世の中はもう少し複雑にできているものだとちゃんと心得ているし、それなりに折り合いを付けながらこれまで生きてきたが、近頃はそのような折り合いをつけつつも、目眩が止まない。あたしの体や意識が処理しきれなかった現実の一部分が目眩となり、あたしという印象があたしという人称を名乗って生活している。
 随分と昔に「現実は遅すぎる」と知り合いのウェブデザイナーが言っていたことを思い出す。かと言って車や飛行物体が行き交い飛び交うなかで暮らしていくというのはいかにも物騒なので、人間には人間用の物事がほどほどの速度で進行する環境が用意されている。車道と歩道はちゃんと分かれている。それでもブラウザーは定期的にRSSフィードを拾い続けメールは頻繁に届き、ソーシャルネットワークサイトで近況がアップデートされてコメントが付き、誰もがいいねと思ったり別にいいねと思ったりしている。そこでは結構な速度で物事が進む。
 そのウェブデザイナーの発言だってスクランブル交差点の真ん中で発せられたものだ。その時にその空間を取り囲む信号が点滅し始めていた可能性だってある。だからあたしは自分を取り囲む目まぐるしさ、現実の速度、あるいは目眩の濃度を、自分の生活のどこに焦点を合わせるかで調節するようにしている。
 珈琲がカップから減るペース、曲から曲へと流れるペース、音楽に含まれる拍子のペース、あたしはあたしの生活を組み立てる部品を砂時計として見立て、自分の鼓動の早さを決定している。ひとつのペースにまた別のペースが含まれていたりペース同士で重複する部分がある時もある。仕事場で音楽を聴きながら珈琲を飲んでいるときには、音楽の目まぐるしさに巻かれて、珈琲の減るペースを砂時計として用いることができない。忙しさのなかにゆったりとしたペースが含まれているのだから別にいいじゃないかと思うことがある。仕事や音楽のペースのなかにゆっくりと珈琲を飲んでいるペースだって生きている。贅沢は言えないな。そのように思うこともある。
 そのようにバランスを保ってきたつもりだったが、近頃は目眩がひどい。すべてのものに一律に焦点があっているかのようだ。あたしが直接見たり触れたりすることの出来ないすべてのものも含めて、この世にあるものすべてのものからの僅かな引力にあたしの皮膚や血液が反応しているかのようだ。月から引力を感じ、海からの引力は潮汐により変化する。それらの引力の波があたしの髪の毛のように流れ艶を返す。人の流れにより重力が変化して光りの届き方が変わる。あたしに見える光景が変わるのはそのせいだ。
 光りは直接あたしの眼球には届かず、まずあたしの睫毛に絡め取られる。睫毛は光りを漉して、光りが睫毛を彩色する。あたしはその睫毛を見ながら生活している。
 あたしのことは睫毛と呼んでくれて構わない。

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