20111020 - a song - 3
電車代だけはちゃんと残してあるので午前五時前の始発に乗り込む。
まだ夜は明けていない。この季節の日の出はおおよそ六時前後だとあたしも樫も心得ているから慌てることはない。火曜の朝だったけど時間が時間なので環状線の駅の構内にも車内にも人影はまばらで、季節からも時刻からも切り離された時の流れが電車の座席の形をして並んでいる。
あたしはまばたき一つでその座席を電鉄の車両に見立てる。吊革をぶら下げる金属のパイプを線路に定め、交通を内側へ内側へと引き込もうとする。街はあたしの心のなかを移動している。あたしは夢見がちで現実離れしていて、本当は夢さえも現実のなかで見られるものだから足下がおぼつかない。
あたしの睫毛はあたしを目の中に閉じ込める鉄格子みたいなものだ。目で見るものを手で触れて感じることまではできる。でもそれは睫毛に引っかかってしまい、ポケットに入れることは出来ない。そんなものも当然ある。あたしが座っている座席が電車の車両そのものであるはずはないのだし、あたしが足を投げ出して座っているシートが吊革のレールに沿って走っているわけはない。あたしが外からそれらを自分の好みのサイズで眺めているわけでもない。何かを抱きしめようとして結局は鉄格子めいた睫毛を抱きしめていることになる。睫毛に絡みつき、減速し、カーブを切り、不可能な方向から寄せた光りがあたしの視界を奪う。あたしの視界はこの街を通り過ぎた様々な時間や視角の残映に奪われている。
ふとあたしは自分がこの街にやって来た頃を思い出す。
と話し始めたいところだが、あたしはこの街の生まれだ。
けれども自分がこの街にやって来た頃の光景がありありと浮かぶ。
それはちょうどこんな景色だった。
これはちょうどそんな景色なのだろう。
シャッターを切るみたいに瞬きを繰り返す。少しずつ景色がずれていく。電車が動き、線路がそれに追随する。あたしが瞬きを切るワンフレームごとに景色は横にずれて建物の角度が異なる。空の光量はほんの僅かずつ増している筈だがあたしの感覚は車内の電灯に均されて車外の明るさの変化を察知することができない。列車は早朝の市街地を忌憚なく貫いて走る。住民たちの寝息が聞こえないのはこの列車が通過する音に彼らの眠りが妨げられたせいだろう。
建物が途切れ東の空が露わになる。
「ねえ、樫」
見てよ、窓の外。
樫は節くれ立った樫の木になって眠っていた。ガタンゴトンの音がその外形を撫でて震わせている。かける言葉も毛布もない。魔法はあるが魔法の言葉はない。言葉にかかる魔法はある。樫が樫という言葉にかかった魔法であるように。闇や照明の光りに乾いていたぼさぼさの髪の毛と顎髭と無精髭が、そこかしこで反射して届く夜明け前の日光に湿り始めていた。さっきまで飲んでいた酒の匂いが漂っていた。あたしは髪留めを直し、右ポケットに切符が入っていることを確認する。前にもこんな明け方はあった。こんな散歩を何度繰り返したのだろうか。これから何度こんな散歩をする暇を見つけられるだろうか。これから何度こんなことを思うのだろうか。
これまでに重ねてきた散歩のあと、何度こんなことを思わなかったのだろうか。
感慨のなかったそんな朝の方が懐かしく感じられる。
「着いたよ」
あたしは肩に触れて樫を起こす。
まだ着いてはいなかったのだけど。