20111022 - a song - 5
樫は独立自営のイラストレーターで自分でこまめに営業に出て取ってきた小さな仕事の一つ一つを丁寧にこなした。樫は動きを描くのが上手かった。要素の一つ一つを大事に描き、それを切り取られた変化の画像の一瞬の配置のなかに収める方法を知っていた。駅前の風景、夜のドライヴ、ひとりきりの部屋で目を閉じている誰かがその目蓋の裏で見ている光景、どこまでも続く都会のサバービア、その悪夢が悪夢ではないことを樫は知っていた。ディテイルとパース、その双方から双方を活かす術を心得ていた。一枚のキャンパスを一枚のキャンパスとして固定している視点から沸き上がった移ろいは樫の絵を見ている人を包む時の流れと同期して、いつでもそこに残った。
樫の絵にはいつも樫自身の姿が描かれていた。人混みに含まれるひとりとして、夜の雑踏の形をした秋の空気の裾を持ち上げてどこかのバーへの階段を下りる後ろ姿として、自分の見ている風景の複雑さに途方に暮れているカメラとして、あるいは大抵はどこか寂しそうな顔をした少年として、樫はどこか隅の方から絵全体を見ていた。樫が本当に寂しいのかどうか尋ねたことはなかった。
だって結局それは泣き言だから。
「なあ睫毛、そんなの当たり前だろ」
と樫は言うだろう。そしてあたしはそれが当たり前だと分かりつつも、それがどう当たり前なのか大概の時は実感できないだろう。
「孤独を憎むことは全てを憎むことだものね」
他の人の孤独も含めて。だからたぶん人は自分の孤独を憎んではならない。何が何でも。それしか理解の及ぶ道はない。それで実際に足りるということは決してないとわかりつつも。あたしはその残りを言葉にはしないのだけど。
孤独を憎むことは全てを憎むことだものね。樫に応えそう話してみてそれは少なくとも論理的には多分正しいのだろうなとは思うが、言葉の意味ばかりが早まり実感が遅れる。理屈が先行し実感が伴わない。もしくは言葉のほうに実感が宿りあたしの心には何かが残らない。あたしはそれを自分のものにする方法を知らない。自分が勝手な何かを言えている気がするが、誰がそれを言っているのかが分からない。だから目の前で話している誰かの言葉を聞いて頷きながらも、誰がそれを言っているのか分からない。
とっくに諦めていたから。そして自分が何を諦めたのかもう理解していないから。それなのにまた始めようとしているから。自分が諦めたことすら忘れてしまったものを信じることによって。無を認めることによりそれは無でなくなる。人間はそんな力を否応なしに持つ。服飾関係の仕事に就くというかつてのあたしの夢のように。あたしが翻訳作業の合間を見て暇を持て余す以外の時間を見つけた時、今でもまっ白なキャンパスに冬物のスケッチを引くことがあるように。
樫と樫の描いた絵、あたしが先に見たのは絵の方だった。
あたしは始めはそれを自分の睫毛が見せている幻影だと思った。自分にだけ見えている幻影と、現実として多分他の人々と何らかの意味で共有可能なものの区別がつくということは先に話した通りだ。何故かあたしは樫の描いた絵を自分の幻影として認識した。あたしはそれを誰かが時間と労力を費やし現実の土壌で描いたものだとは思えなかった。あたしはそれを睫毛を透かして見た幻影だと思った。
そして突然視界に割り込んできた樫の木がその絵をあたしの幻影の外側にそのままの形で持ち出した時には心底驚いた。樫の肌を被う樫の木の木理は樫の内側で成長しているかのように変化しながら樫の頬をなぞり鼻筋を辿り額で渦を巻き髪の毛に逃れた。ぼさぼさの髪の毛は一本一本が繊細な枝で出来ていて、風もないのに何かにそよいでいた。
それからゆっくりと樫はあたしの幻影から逃れて人間の皮膚を取り戻し体温を帯びた頬が赤くなっていくのを見た。あたしは温度感知器が人間を見るようにそれを見ながら、それは睫毛が見せている幻影ではなく本当にそこに誰かがいるのだと気付いた。
それまで家族を除けばそんなことが起こることはなかった。樫は現実のものとしてそこにあり、樫の木としてあたしの幻影に割り込みその中で樫としての人格を保っていた。あたしの幻影と現実世界を行き来する樫だけれども絵を描く時は必ず人間の姿でいた。それでいてあたしが幻影として見ている物を描くのだった。そして樫はそれをあたしの外側へと持ち出す。それは現実の絵画となりどこかのギャラリーに展示されたり誰かの部屋を飾る。それはあたしの幻影に属するものだからあたしがそれを所有することは出来ない。でも樫があたしに見せてくれた絵を心から取り出し、一枚一枚を心ゆくまで眺めることはいつでもできる。だから樫はあたしが見る幻影をあたしの外で作り、それをあたしの外に持ち出す。そんなことくらいは出来て当たり前だという風に。あたしもそれを当たり前だと思うし当たり前だとは思いたくない。