nobody hurts

October 24, 2011

20111024 - a song - 7

 プールなどで泳ぐ時にはこの現象は起きない。景色みたいにその匂いが漂っている塩素に光りの契機が失われる。風呂ではたまに湯が光る。
 浴槽につかる。膝を曲げ、腰を沈め、湯が背筋を辿り首元を包む。シャンプーとコンディショナーの赤い容器、石鹸、スポンジ、それを乗っけているアルミ製の金網のカゴが吸盤で壁のタイルに固定されている。顎まで浸かる。風呂の電灯は消えている。
 少し深めに息を吸い込んで頬、耳たぶ、耳、鼻、と沈めていく。左目を閉じて、少し顔を傾け、左の睫毛だけを湯に漬ける。ほとんど溺れそうな状態だが、右目は薄く開いたまま保つ。すると浴槽の水に電気が通い、あたしの睫毛の一本一本の毛先から幾つもの色で様々な形の反応が起きるのが見える。ネオン、インク、青白い電流、それぞれ染み渡り、早回しの記憶みたく場面が展開する。塗装の落ちた窓枠やポストや地面の高さから見上げた信号や電線やそれと同じ色で所々で折れ曲がる細い枝やソファの焦げ茶の布地や毛羽立ったカーペットやリコリスのプリントされたカーテンの裾がトゥーンシェーディングめいた質感で重なって入り混じり、角度を変えながら明滅する。光りの色で時間帯やら電球の種類などが分かる。早回しの風景はいちどきに数々の空気感を呼び込み、現実感を強めるだか弱めるだかして、湯船の底に膝を立てて座りながら、あたしはあたしの両足が自分の体重を支えているみたいに緊張しているのを感じる。湯が光り湯気を仄かにライトアップする。シャワーカーテンが光りと蒸気に濡れている。眉毛から下のほんの小さな要塞をあたしは湯の表面と右目のあいだに保つ。鼻から漏れた息は泡の抵抗に受け止められる。あんまり長い時間その体勢を取っているのも辛いし、息もそんなに長くは持たない。
 その後は湯を半分抜いて三十分ばかり半身浴をして体中から汗を流す。
 そうしてようやく眠気が訪れる。
 髪の毛をタオルで拭いながら、コップの水を飲み干す。すでに八時を回っている。
 睫毛を拭く用のタオルを鏡台の引き出しから取り出す。
 ハンカチや余った薄い布の切れ端を四センチメートル四方に切りそれを二つ折りにして三つの辺を縫う。長辺四センチ短辺二センチの長方形の布。小人用のタオルみたいな形をしたそれを百枚くらい作り、漆器調の小箱のなかに畳んで重ねてある。使い終わった睫毛用のタオルは台所の隅に用意したザルに放り込んで、九十枚くらい溜まったところでまとめて衣服用の洗剤で手洗いし、机に並べて乾かす。その時にはノートパソコンとA4サイズのノートと何冊かの本をベッドに逃がさなければならない。コーヒーカップは手で持つ。そのあいだは仕事が出来ない、と言い訳も出来ないのでベッドで伸ばした足の上にノートパソコンを開いて作業をする。
 左右それぞれ一枚ずつタオルを使う。
 そのまま眠らずにいたいのだが眠気が勝つ。眠くなればなるほど眠りたくなくなる。三時頃に目を覚まし起き抜けにそんなことを思う。
 メールをチェックする。友人が借りている事務所まで翻訳原稿を受け取りにいかなければならない、とその朝に思い出し損ねた予定を確認する。ノートパソコンの脇にはアクティブスピーカーが原風景みたく置かれている。トーストを一枚、目玉焼きを一つ、フライパンで温めた缶詰入りの豆を一枚の皿に盛る。楽をしたい時にはいつもそのメニューで済ます。ベーコンとトマトは切らしている。そうこうしているうちに五時になる。街に灯りがともり始める。常套句だけをかいつまんで話している。
 髪の毛をまとめ白のYシャツに青のロングカーディガンを重ねる。下はよれよれのジーンズだが気にしない。キャンパス地のスニーカーの踵をつぶして履く。
 蒸す夜でカーディガンが少し暑かった。駅まで十五分歩く間、湿気と寝不足のせいなのか睫毛も上手く機能していなかった。比較的穏やかな自分の視界のなかをあたしは歩いた。そのせいで注意散漫になり、駅の券売機の横に何故か設えられた鏡にあたしの姿が映らないことを確かめるまでそれが幻影だと言うことに気が付かなかった。

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