nobody hurts

October 26, 2011

20111026 - a song - 9

 そのような生活のなかで言葉なり意味なりを憎む理由を見つけながらも、あたしは持ち帰った原稿の翻訳を日々続ける。
 趣味で英詩を書くものの、いわゆるクリエイティヴライティングはあたしの専門ではない。けれどもあたしの頭のどこかで自分は都会を新しく書く方法を探しているのだと感じる。都会が都会的なものとしてすでにそこに実際に存在している以上それは達成不可能な目標ではないような気がする。
 目の前にすでに建物や景色として実現され、どうにか自分の理解が及ぶと思えるものは、自分がとりこぼしたものだと思うことにしている。それは自分の仕事ではなかったのだと。
 公営住宅に越して来てからたぶん四年、そこで自分が立ち止まり重複して体験したように感じる時間を足した朧気な五六年間をあたしはそのような作業に従事しながら過ごしてきた。
 人間の意識も自然現象の一つであることを認めるのならば、文明が自然のカテゴリーから除外されるのはどこか自然ではないとあたしは感じる。都会を都会の秩序から切り離して考えたいが、例えあたしが草原や密林のなかで暮らしていても従わざるを得ないルールは存在するだろう。知りつつ、あたしと樫は慣習に染まっていない都会の見え方を探そうと徒労を重ねている。
 あたしや樫は一日のある時間の切れ端のなかで立ち止まりながらきっとそのような徒労をまたもう一度とまたもう一度と積み重ねてきた。目の前のものが名前を失い、そのついでに束の間消え去ろうとする自分自身のその立ちくらみを保存する。
 あたしが人混みという言葉に自分を預けてクルーズコントロールで街を歩き、自分の外を流れていく雑踏を自分の一部として捉える時のように。
 それをあたしは主に英語から日本語に翻訳するという作業のなか言葉を選んでいくという行為に落とし込み、樫は絵筆を選ぶところから始めて絵を描くという行為に含まれる諸々の手順の一つ一つを定めていく上で留意する点として保とうとしている。そうして自分の人生の感想に染められていない体験の痕跡を自身の人生の文脈の内側で再現しようと試みる。あたしの訳語がやはり前後の文脈に従わなければならないのと同じだ。
 自分がいない時にこの街はどう見えているのか。
 例えそれが掴めたとしても、それだけでは街を新しく描写するためには足りない。
 そこで立ち止まらず、自分を除いたこの街を自分からさらに差し引いて、そこに残っているものがそれ自身を語り、それ自身を埋めてしまうための余白。そんな場所にいたいねと樫と言葉を交わす。そんな余白はどうにかそれ自身を語るための言葉に塗りつぶされ、余白ではなくなってしまうのだけど。
 「結局はそれが俺たちの理解できる範囲だからな」
 フローリングの床に胡座をかき、半分ばかりビールの残った瓶の口をつまみ膝の上で振りながら樫の木が言う。あたしは樫の木の言い分に頷くことにより樫の木がまだ言ってないことに対して頷いている。樫の木がそんなことを言うのは、それが限界ではないと樫の木が何故か容易く知っていると分かるから。
 その向こう側に対してあたしは頷いている。
 樫の木は瓶の口近くをつまみ、瓶を振り子みたく回し続ける。瓶のなかで泳いでいるビールの重みが分かる。
 あたしの理解や先入観や幻想の肩代わりをする睫毛があたしにそのように伝えている。
 そして、先に述べた通り、いま目の前にいる樫の木に関して少しでも理解が及ぶと感じる部分に関しては、あたしがあたしを構築するうえで既にとりこぼしてしまったものだと思うことにしている。特に誰ということもないあたしの代わりに既にそこにあるものとして。
 あたしはあたし自身についても同じように考える。あたしはすでにここで実現されていると感じるあたしを自分が既にとりこぼしたものとして認める。ここにあると分かるすべてのものは既に失われたものだ。そしてあたしはその余白が自分自身を語るに任せる。
 樫と午前三時くらいまでそんな話をして、そのまま九時過ぎまで集中して翻訳を進める。それからシャワーを浴び、頭にタオルを巻いたまま睫毛用のタオルで睫毛を拭う。
 窓の外、午前十時の町並みが広がる。二階の窓だから眺めはよくない。あたしの理解の及ばないものが何かを語りかけようとしている。あたしはさきほど樫に対してそうしたように、それらに対してただ頷いて返す。
 そしてあたしはひとつ確かな瞬きをする。
 あたしの睫毛があたしに対して頷くように。

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