nobody hurts

October 27, 2011

20111027 - a song - 10

 仕事の合間を縫って深夜、公営住宅の周囲を散歩する。
 二十七にもなり定職につかずただ街をふらついている。
 フリーランスの翻訳家として生計を立てつつ、機会がある毎に様々な場所に顔を出す。音楽がかかり、酒が振る舞われ、誰かが踊っている。あるいは仕事で回ってきた英語の文章とそれが紹介している作品の画像と顔を付き合わせる。そこから誰かと何を共有しているのかは分からないまま、ただ何かを共有したのだという甘やかな記憶だけが漠然と連ねられていく。
 いつしか夜と昼の区別がなくなり時刻だけが存在するようになる。個人的な伝説や神話に自分の記憶の一部分を預ける。あたし自身が誰かの人生の記憶の一部分を担っているということもあるかも知れない。それでも自分が何を受け持っているのかは分からず、人の気持ちを理解することよりも文化的な形象を理解することの方が大事だと思い込むことがありそれが過ちであったと後になり気付く。感受と消費の境目が曖昧になる。
 誰かがそこにいるということの方が本当は重要なのに、作り手も受け手も既成の文化の枠に人格を乗っ取られる。みんながみんなそうでないということも分かっている。理解され、理解するための手続きとして、細分化を続ける表現の枠組みの重要さは理解しているつもりだ。達成の目印として、符号を符号として伝えるものとして、ともかくはある一つの文化と認識されているものの大切さも分かる。その中で培われた伝統は後進の世代に受け継がれ、時代や社会のなかで新たな化学反応を生み出す。特に何者でもないあたしだってそうした様々な文化的な形象のパッチワークとして存在している。そうして存在しているのは楽で心地よいが、それに対する憎悪が同時に育つ。だから都会でのあたしのつつましやかな活動の根源には自分が見聞きして感じて来たものに対する愛着と憎悪の両方がある。
 あたしはそのような枠組みから自由になりたいとずっと思ってきた。
 それでも共感を求めてしまう。
 それがあたしの抱える矛盾で、それが唯一のものでなければ、最大のものでもない。
 あたしや樫が都会にこだわるのはそのような理由からではないかと思う。動きを動きとして捉え、それを動きのなかで動きとして表現できれば膠着は避けられる。
 公営住宅の周囲はさほど賑わっているわけではなく、郊外と呼んでも差し障りはない。最寄りの駅まで歩いて十五分、そこから街の環状線に辿り着くまで三十分弱。自転車を持っているが、駅までは歩くことのほうが好きだ。自転車に乗っていると睫毛の作り出す幻影が何故か活発なものとなる。そのせいで通行人やガードレールやブロック塀に衝突したりすることはないが、余分な神経を使う。
 深夜に一人歩きしている時には人混みという言葉に焦点を合わせることができないから、夜風だとかに焦点を合わせることになる。あるいは自分の足音だとか鼓動だとか衣擦れだとか呼吸だとか瞬きだとか。あるいは地球の自転だとか公転だとか焦点を合わせる。そんなことが出来るのは夜の一人歩きの時だけだ。そうしてゆったりと歩く。
 けれども結局あたしの焦点はいつでもあたしの睫毛に合わさっていることをあたしは知っている。そしてあたしの睫毛はあたしの考えていることを考え、あたしは睫毛があたしに見せることを選んでいるものを見ている。だからあたしは本当は物凄い近眼で、ずっと遠くに実際にありずっと遠くに見えているものすら結局は自分の頭の中にあるのだと知っている。時代だとか文化だとか環境だとかから自由になりたいと威勢よく言ってみたところで、あたしが逃れることのできない個人的な檻はいつでも目の前にある。
 午前四時過ぎに自室に戻り、まださほど疲れも感じないまま仕事を放ってベッドに体を投げ出し目を閉じる。
 そうした折りにだけ、運が良ければ、時の流れに焦点を合わせることができる。

category

archive