20111031 - a song - 14
珍しく午前中から活動していたその日のその晩、再び仕事に取りかかり原稿に妙なところがあることに気付いた後に、あたしは樫と再び秋の構内に降り立つ運びとなる。部屋を出た時に珈琲がまだ湯気を立てていたのを覚えている。珈琲の匂いがしていたのを覚えている。それをまるで季節の匂いみたいに感じていたことを覚えている。長い一日になりそうだと思ったことを覚えている。
あたしのものでも樫のものでもそれともどこかの映画の中で見た物でも構わない。どれか好きな夜の場面を思い浮かべてくれればいい。そんな夜だ。実際には環状線に辿り着いたところで歩き始めることに決めた。都会の繁華のなかを移動したかったわけではない。本当にただの意味のない夜歩き。あらゆるものにうんざりしながら、言葉を失うものの前では言葉を失う。そのことを言い表す言葉を獲得するのがその時でないことを分かっているから。それは何に対してもそうなのだけど。そのような領分もある。先に言葉があるものになんて大した意味はないと多分二人とも思っていたから。狂った体内時計が正確な一秒を計り続け、狂った時計はともかく正確な一秒を共有している。その背後のメカニズムについては分からない。少なくとも今はそのように感じる。そうでなかった時は思い出せない。
珈琲の匂いが夜の部屋を満たしていた。
「トリック・オア・トリート」に対して、
「トリック・オア・トリート」と返して部屋に通した。
その晩は樫はビールを持たず、あたしの冷蔵庫を漁り始めた。缶ビールをみつけてあたしの分のプルリングもひいてくれる。あたしは原稿の妙な箇所に気付き動揺し始めていたところだったから、有り難く自分のビールを受け取った。いつもと同じようにおざなりに乾杯するふりだけする。二三口飲む。
夜歩きに出たそうだったので、あたしがスタジャンを手に取るとビールの缶を持ったまま樫は玄関口へと移動し始めた。
どのみちあたしも自分の部屋にいられる気がしなかった。外気が必要だった。
電車から降りて環状線の高架下を歩きながら、通過していく電車をやり過ごす。線路に沿って歩き、時に住宅地に分け入りながら、その晩あたしと樫はずっと黙ったまま歩いていた。
沈黙に耐えかねて「ここではないどこかへ」とあたしは言ってみる。
「ここでしかないどこかへ」と樫の木が何かの合図を待っていたかのように答えて返す。
そんな時にあたしは樫の木をぶん殴りたくなる。こいつはあたしの世界を終わらない広がりのなかに閉じ込めようとしている。そのように感じるから。あたしはどこかに行けると思っていた。けれどもそのどこかというのが別にどこでもいいことになる。そう考えるとあたしは解き放たれたままどこかに幽閉された気持ちになる。終わらなさの裾野、慣性だけで生々しい。
あたしは部屋に立ちこめていた珈琲の匂いを思い出していた。樫の木は自動販売機の横を通りかかるたびにいつものように缶珈琲を一本ずつ買い、飲み終わった缶をその次の自動販売機の脇にあるゴミ箱に捨てる。終わらない珈琲が終わらない缶に詰められて終わらないゴミ箱が並んでいる。だからかどうかは分からないがその晩は樫は民家の屋根に向かって空き缶を投げ始める。
「止めなよ」とあたしは言う。
「止めない」と樫は答える。
でもその場では止めるのだ。そこが樫の面白いところだと思う。