20111105 - a song - 19
二階の自室に戻り、閉じられたノートパソコンの脇に置かれたマグカップに半分残った冷めた珈琲を飲み干し、新鮮な珈琲を淹れて水筒に移し、ストラップを流しの上の収納棚から見つけて水筒をたすき掛けにする。
天井の灯りは点けず、ナイトテーブル代わりの背もたれのない木製の椅子に置いたランプの光りが、ベージュの囲いにダークシアンの紗を重ねたシェードを透かし、カーテンに閉ざされた夜明け前の部屋を照らしている。北風を通わす冬の機械とはまた違った機構がそこで働いている。照らされることによって働く個人的な視覚の機械。
壁際の机、その上のノートパソコン、その左脇に置かれたフェルト糸で綴じられたルーズリーフ、ノートパソコンを挟んだその逆側には冷めた珈琲を湛えたマグカップが置いてあった。日の出はまだだったけれども、ぼんやりとした光りがカーテンを透かして染み込んできて、それはシェードを通した白熱灯の光りに均されることがない。これから時間をかけて外からの光りが部屋を満たす色を均していくあたしはその前に灯りをおとす。
四階の樫の部屋の鍵は開いている。樫はもう屋上だろうか。樫の部屋はあたしの暮らす部屋と同じ間取りだが、樫は畳の床をそのまま使っている。スニーカーを持ってベランダへと歩き出す前、玄関口から部屋を見渡した時、大きなキャンパスが壁に立てかけられていることに気付いた。高さ二メートル半、横幅四メートル程の帆布は全面黒で塗りつぶされている。
初めに見えたのはキャンバス上で瞬く光りの点だった。それは樫の制作途中の絵だと心得ていたから、その光点はあたしの睫毛が生み出した幻影だと分かった。星空が描かれているようだが、見慣れた星座は一つもなかった。
前にも話した通りあたしの睫毛の幻影の内側でも外側でも樫の絵に描かれていることは変わらない。だから樫は実際にどこかの星空や星雲を描いている途中なのだろう。黒い背景に打たれた白い点と同じ数だけの光点が睫毛を挟んでゆっくりと瞬いている。
ベランダに出て、窓の横の壁に立てかけられているハシゴを登る。たすき掛けにした水筒が脇腹に当たる。
樫は先に屋上に出ていた。午前六時より二十分前、氷である炎が東の空で溶けて群青の容器の底に貯まる。眺望というほどのものはなかったが、程よく何にも遮られずに東の空を望むことが出来たし、歩道に被さるクスノキの下を行くたまの人影や生き物の影が見えた。見上げれば晴れた空が被さっている。まだ空に見える星に目をやりながら話す。
部屋にあった絵だけど。
「別の星の地表から見上げた夜空をイメージして描いてるんだ」
見ながらではないけど、と付け加える。
見ながらだと言われてもあたしは困ってしまうだろうけど。
あたしは水筒にコーヒーだけ入れて、マグカップを持ってくるのを忘れたことに気付く。樫の木がビールの缶を振り子みたく振って、コーヒーは要らないと伝える。
心でしかないどこかへ、体を連れて。
水筒の蓋から湯気立つ珈琲を飲みながら思いついた今晩の続きをあたしは口に出す。
いいかげんそのバリエーションは、
「止めなよ」と今度は樫の木があたしに向かって言う。
「止めない」と今度はあたしが答える。