nobody hurts

November 6, 2011

20111106 - a song - 20

 それから泥のように眠る。
 また誰かに睫毛を切り落とされる夢を見る。背景の焦点は甘く、ソフトフォーカスのレンズを通したみたいな室内や屋外の光景が最大限に滲んでいるそのなかにあたしはいる。活気があるという訳でなければ寂寥たる印象もない、ただの郊外の街角。信号機、街路樹、自動車の移動の影、空気の色、光り、瞬き。もしくは壁際にソファ以外は何もない白い壁の部屋。やけにくっきりと見える睫毛の向こう側、そういったものの印象がそこにある。それらは物体の形を留めず、輪郭の曖昧な色の違いにまで還元されている。
 ソファは白く滲み、床のカーペットはグレーに滲み、窓の外の青が滲み、でも実はそれは個々で滲んでそうなったわけではなく、その全体を合わせてあたしが知る室内の光景が滲んだものに似ているのだと分かる。異界が適度に滲んでそれがあたしが知る部屋の印象に偶然似ている。夢の中でそんなことを思う。
 あたしはずっとそれらの焦点の甘い光景のなか浮遊している。
 目の前の睫毛だけがくっきりと見える。夢の中でも律儀に瞬きはしている。夢のなかで瞬きをして、そのあいだだけ目を覚まし、目を瞑ったまま目蓋の裏を見る。
 時折実際に目を覚まして水を飲む。どっちが夢なのか区別がつかない、と自室で起きているあいだのあたしは思う。そうして水を半分コップに残したまま、また眠りに落ちる。次に目を覚ました時にはナイトテーブル代わりの椅子のうえ、水を半分だけ残したコップから一口飲んでまた目を閉じる。
 目を閉じているあいだは夢が続く。ハサミが追いかけてくる。そこに何かがあるのだかないのだか分からない視覚のなかをあたしは走る。あたしを包んでいるのは空気ではなく色。方角といったものはなく、ただ色に呑まれたあたしの爪先が向く方向以外には前も後ろも存在しない。
 たまにその焦点の甘い光景のなか、水の入ったコップがやけにくっきりと現れて、それは夢の中の出来事で、なおかつそれはあたしの睫毛を透かした出来事だと夢の中のあたしは理解しているのだけど、夢の中では睫毛の幻影を所有することが出来ないというルールが働かないのであたしは残った一口を飲んでコップをベッド脇の椅子に戻す。
 走りながら、時に目の端に映る自分の手足も茫漠とした色の動きでしかないことに気付く。だから自分は光景なのだとあたしは思い込む。あたしは誰かに見られている自分を見ているのだと思い込む。だからあたしの体も色にまで還元されているのだと。誰かに見られている自分に与えられた肉体は色の変化や動きでしかなくなっている。あたしはそれを自分の体の内側から見ている。それともそれは外側なのだろうか。実は関係を持たない物同士を結びつけあたしはそれらを自分の内側なり外側なりと呼んでいるだけだ。
 やがて曖昧模糊とした色のバックドロップが少しずつ暗くなっていく。夜空が現れる。手前には甘い焦点の色の狂騒がそのままの明るさで残っている。その夜空はあたしが今朝樫の部屋で見た、制作途中の絵画に描かれたどこかの星の地表から見た星空だと分かる。ぼやけた地平線の上でその夜空の黒と無数の光点だけがはっきりと見える。星雲すら肉眼で捉えられる。樫がイメージしているとあたしが思っている、完全な夜空。それはまるでどこかの街の灯りを上空から眺めているようだ。
 「そう、あの絵のタイトルは『まちのあかり』というんだ」
 と樫の木が教えてくれる。
 その時あたしに追いついたハサミがあたしの睫毛を切り落とす。その後にはあたしの睫毛が残っている。それからあたしは目を覚ます。
 それからベッド脇の椅子のコップに残った一口を飲む。
 ノートパソコンの脇の携帯電話で午後四時であることを確認する。
 水筒に残った珈琲を飲みながら豆を挽いて珈琲を淹れる。
 ページ毎に何カ所か睫毛の幻影により文中の空白が埋められた翻訳原稿をぱらぱらとめくる。

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