20111109 - a song - 23
アンナはあたしに原稿を渡す前に確認をしなかったのだろうか。普段アンナから回ってくる仕事は文化の形象にまつわる英文の記事やインタビューの翻訳や、それか対訳付きの年鑑の和文英訳であることが多かった。普段とは仕事の性質が違ったが、ちょうど前の書籍を入稿したばかりで凪の時期だったし、払いも良かったので仕事を断る理由はなかった。
漠然とした疲れを好むとは言っても、作業中の自分の打鍵音を聞くのが嫌いではないということに気付いた。その夕方は自分がノートパソコンのキーボードを叩くペースに焦点を合わせて活動した。
十本の指でパーカッションを叩くみたいに鍵盤を打つ。
画面上の言葉がその音に被さる。実際にはローマ字かな変換を採用しているので、打鍵の数と画面上に現れる文字の数は一致しないのだけれども。
自分の訳文が気に入らず、デリートキーを押す時に一番趣を感じる。普通の文章を打つ際には打鍵のリズムは散らばってまちまちなのだけど、デリートキーを押すリズムはいつも一定で、あたしは消したい文字数だけデリートキーに触れる。迷路で間違えた道を選んだことに気づき、来た道を猫背でとぼとぼと引き返すみたく、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とぼ、とそのキーに触れる。
こんな虫食いの文章が出てきた。
“And sometime a day will go by quietly at that house (o’) altitude”
明らかにあたしの睫毛は間違えた単語の選択をしている。
あたしが見えている通りに訳せば、
「そしていつか一日はその家で静かに過ぎ去るだろう、おお深遠なるかな」
になるが、
実際は、
“And sometime a day will go by quietly at the house (of) altitude”
「そしていつか一日が高台にあるその家で静かに過ぎるだろう」
と言う文章の方が自然だ。
とは言え”o’”を”of”を省略したものと捉えることもできる。
すでに自分が失われたものに囲まれて暮らしているとしたら、この目の前にあり、あたしの睫毛により空白を補完されている原稿は一体何なのだろうか。
その原稿の筆者は単語を削り自分の原稿を途切れ途切れの文脈は持つが未完成である状態に戻した。意味が意味に縛られることがないように。そのように想像してみる。
そしてあたしの目の前にあるのは完成されていないが故に理解の及ばない都会の姿であるはずなのに、あたしの睫毛がその欠けた部位を補い、既にあたしが知っている意味にあてはめて読んでしまっている。
睫毛を一本抜いてみる。
睫毛を抜いた感触はある。
けれども親指と人差し指のあいだに挟まっているはずの睫毛はそこにない。
睫毛がそう見せているのだ。
と諦念半分自嘲半分の気持ちでいたら、腿の上に落ちている睫毛を一本見つけて何だか馬鹿らしくなる。