nobody hurts

November 10, 2011

20111110 - a song - 24

 前にも話した通りあたしは都会を記そうと試みて幾度も挫折している。
 改めて頭を整理してみて都会をあたしに印象づけているのはコントラストだ。何かと何かの対比。
 そこにあるものとそこにないもの。闇と光り。闇夜に浮かぶ星。夜闇を照らす街灯。あるいは星と星空。ビルとビル群、人と人々。糸口の切り口と口を切った糸口の導く道。時間と経過、記憶と時刻、散歩と昼寝、掃除と炊事。都会の暮らしはそのようなコントラストのなかで過ぎていく。それらのコントラストが記憶されその夕方のあたしが住んでいるこの街があたしによりまたもや空想されている。地名や駅名や角の名前では捉えきれないものをあたしは漠然とした一般的なものとして思い浮かべる。多様さを求めているせいで怠惰になっていると言い訳しているが、その怠惰な認識に対して真摯に立ち望もうとしているのだからわれながらふざけていると思う。
 白夜と白昼。複数の何かがいつかどこかで歪んでいるそんなコントラストを持ち出すことも出来る。威張ることではないがあたしのように昼夜逆転した生活を送っているものにとってみれば昼の時間は白夜のようなものだ。そこにもコントラストが生じている。言うまでもなく、あたしがそのように考えているそのせいで。
 あたしはずっと同じ事を考えてきた。
 そのように物事を捉えることを幼稚だとか感傷的だとか非現実的だと一笑に付すことはきっと容易い。あたしはそのような領分を越えて話すことだけをずっと考えてきた。話の内容がそれに付随するものでしかないときもある。それでも新しい領分では新しい技術が育つ。
 今はまだ伝達可能な信号の種類は限られていても十分な複雑さを生むに足るTPOはばらけてそこにある。もし例え単純なオンかオフの信号しか送れなくとも、人が違えば仕組みが違うので、それが独善的な主義主張を助長するものになるとは思えない。もしそれがそうだというのならば、今までにあたしたちが話してきたすべてのことがそうだということになる。調整に必要な細かなカーブを処理しつつ、何かをひとまたぎにする。
 コミュニケーションというお題目を扱うのにそれでは余りに大雑把であるという思いもある。
 けれども翻訳というあたしの職能ひとつとってみても、文章の解釈があり、訳語の選択があり、それが和文でのニュアンスを生み出し、そのニュアンスを留めておくために前後を整理しながら字数で音数を調える。呼吸をあたしは処理している。意味を通して。
 あ・うん、が繋いでしまっているものの得体を知るために同じ言語のなかで翻訳を繰り返し、辞書のなかを何遍も回ってしまっている。なので、あ・うんで済んでいる。辞書が違うことは強みでしかない。希望よりももっと力強いものがあるとあたしはそう思っている。
 都会を記そうというあたしの試みは結局はあるものとないものの違いを話すだけの試みでしかないと思うことがある。
 翻訳の作業に行き詰まり珈琲をすすりながらあたしは部屋を見渡す。
 この部屋にありあたしが理解が及ぶ全てのものは失われたもので、残りはここにないか、あたしがそれについて分かっていないかのどちらかだ。あたしが目にして理解するものごとのひとつひとつをあたしはこれまでもそして今もとりこぼしている。どこかの都会にある部屋の一サンプルとしてその意味合いを理解できる範囲においては、この部屋にある全てのものはあたしの仕事ではなかった。そしてあたしの理解などたかが知れている。そのことに対する理解すら危うい。そしてあたしの誤解は計り知れない。

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