20111111 - a song - 25
日はとっくに落ちていて時に冷蔵庫のモーターが鳴る。まだ仕事の区切りを付けるのには早い。午後四時に起き、いまは午後七時でその日の二食目をとる時間ではなかった。その日の一食目は楽をしたい時はいつもそうする通りB&B形式の軽食で済ませた。皿とフォークとフライパンは流しに放りっぱなしになっている。小食なうえに食事を摂ることを忘れがちなので洗い物はそれほどたまらない。コーヒーカップは無駄に幾つも持っていて、洗い物を怠るので乾燥した珈琲が底にこびりついた陶器や磁器が涸れたステンレスの水槽に溜まる。
立ち上がるのが面倒な時にはカップを流しに向けて放りたくなる。
休憩がてら珈琲を淹れることにして、湯が沸くのを待ちながらキッチンが見える位置からこちらを目にやる姿見の中の自分に目をやる。襟首の伸びきった部屋着のTシャツに睫毛が勝手に模様を浮かべている。現実の定義にもよるが超現実的と呼んでもいい。それともそれは超現実的のほうの定義だけで収まるのだろうか。一枚のコインの裏表だがコインは固定されていて、表裏を見るためにはいちいちその回りを歩かなければならない。
もとより服を着ることには現実に超現実的なものを描き足す用途が多分にある。それを現実と呼んでいるのだから境目など初めからあってないようなものだ。
あたしが服飾に興味を持ったのもそのような理由もあるのだと思う。誰かが着ている無地のシャツに睫毛があたしの無意識を映し出す。大抵はそこには洋服のパターンと呼んで差し支えのないものが浮かぶ。最近ではそれをスケッチもしなくなったが。
そして服を着るという行為や、他の身体的な装飾の行為は、あたしの睫毛が外側にあるようなもので、好みと創意次第で大体好きなものを見せることができる。こう水を向ければこれはどこまでも適用することができる話だ。そしてともあれそうすることによって生じるものが現実の範疇におさまるとされていることが重要なのだとあたしは思う。
湯が沸く。
あたしはあたしの睫毛の持つ作用についてもう一度考える。
あたしの睫毛はあたしの無意識を視覚化して現実に重ねる。
あたしは自分の無意識のその過剰な部分を視覚から除去することができる。
その括弧付きの現実にしたって何らかの拘束のもと自由に執り行われている。時に応じてある程度は柔軟であることができるという裏返しの拘束により。そうして目に見える形での誰かの妄想に日々触れているが、それについてはこれまでもこれからも実は話し合う暇すらろくにない。
固定された睫毛の働きを外側に持ち出すような日常の営為により現実の領域を広げることは可能で、あたしは翻訳という作業を通して英文から和文を割り出し、それをほとんど誰にも顧みられることのない片隅で進行させる。何かを付け足す、という言い方は余り正確ではないと思える。
あたし自身は現実の部分でも全体の一部を不可分に成すものでもなく、部分か全体の一部を不可分に成すなにものかのなかでの範囲を定める定義の組み合わせにより成り立っている。あたしは現実に生えた睫毛だ。
自分に被さるそのような定義をあたしが憎んでいるということは話した。
珈琲を机に、あたしは持ち帰る。
関係の圧力のなかで自分を内側から押し返し自分は自分であると主張している力。
それを裏返しにしてそっと外側へと向ける。
今は姿見を見ているからそれが自分に返ってくる。
姿見のなかのあたしがモニターに視線を戻すのをあたしは興味深げに見ている。
睫毛を挟んでのことなので、姿見のなかで作業を続ける自分と珈琲を飲みながらそれを見ている自分の関係が逆になることはない。
それからあたしはモニターに視線を戻す。