20111112 - a song - 26
そして都会の空白をあたしの睫毛が勝手に埋めていく。
完成していないものをあたしが勝手に完成させていく。
これがあたしの行き着いた先でありここが出発点だ。
多分あたしの課題は睫毛の見ているものを取り払うことではなく、睫毛が見ているものを理解することだ。孤独を憎むことは他のすべてを憎むことだ。他の人の孤独を含めて。
他の人の孤独に対して積極的な感情を向けることはできなくとも、自分にあるものを対処することによりどこかで何かが交わるかもしれない。
空っぽの理解を示すことをあたしは本当は憎んでいる。知った振りして頷くことをあたしは憎んでいる。何かの同意や反応を示す時、自分が何について頷いているのか分かっていないというのは気味が悪いことだ。だからこの気持ちは一生つきまとうのだと思う。
その場その場の感情のなかだけではなく、状況の流れの中にも人は生きている。自分が対処できるのは流れの方だけだという気持ちが強くある。それでいてその場その場の感情をしか何となくあたしは受け取れない。そこで矛盾が生じている。それを都会のコントラストと呼びたければ呼んでもいいけど、こちらにとっては感情の死活問題だ。
そんな思いも流れの中でしか対処できない。
だからこそ悲観はできないのだけど。
物語の冒頭近くの始発電車のなか、蛍光灯の明かりに均されていた空の色の微細な変化のように、その変化を時間の大まかな経過のなかで捉えて外の状態の前後を確認する。
あるいはいつかの自室でカーテンを壁から浮かせていた日光がランプシェードを通した明かりを均そうとしていた時のように、真夜中の自室に灯っていたそのランプの色を忘れまいとする。
あたしに対処できるのは前者のほうで、あたしが覚えていたいのは後者のほうだ。
あたしが印象として操作できるのは後者のほうで、あたしが本当に忘れていくのは前者のほうだ。
単にそのような個人的なコントラストのなかにこの都会があるだけで、都会のコントラストなんていう気障な言い方のなかには殆ど何もない。せいぜいあたしくらいしかない。そしてあたしはその明暗のコントラストを掻き分けて何かを掴もうとして、結局は繁華街へ向かう切符ぐらいしか購うことができない。
そして辿り着いた街の真ん中でしばらく馬鹿面を下げたあと、また自室に戻る。ひとりの時間が待っている。それでも自分の孤独を理解するには足りない。
あたしが遠回りにでも他の誰かの孤独を理解しようとするためには、こうして話し続けることくらいしか方法がない。
午後九時少し前にさっき立ち上がった時に淹れた珈琲をのろのろと飲み終わる。そろそろその日の二食目を用意する時間だ。
さっき流しに放ったままの皿とフォークとフライパンを洗う。一食目と同じメニューですますことにする。ついでに流しに溜まったコーヒーカップを洗う。